隣の声は青く見える?!
ひとの声にうっとりするとき
声を聴いてうっとりすることはあるだろうか。
イケボ、という表現は好きではないが、
ときどきびっくりするほど麗しい声に出逢うときがある。
わーーいい声♡
思わず口にすると、ありがとうございます!初めて言われました、と言われる。
これだ。
たいていのひとは、自分の声を褒められ慣れていない。
それほどまでにわたしたちは、
『声』というものに無頓着に、意識をせずに生きているということ。
だって、あまり褒めたりしないでしょう?
でもひとたび意識を向け始めると、ひとの声に敏感になっていくもの。
声を知ることで、ひとの魅力を敏感に察知できるようになっていくひとたちを、私は嬉しく思う。
おっと、話がずれてきた。
そうそう。
わぁ、このひとの声、素敵♡
わぁ、このひと、素敵だなぁ。
いいなぁ、わたしもこんな声だったらなぁ・・・
そう思う自分は、自分の声の魅力を知らない。
隣の声の魅力
なめらかで美しい、艶のある声。
可愛くて、明るくて、元気のある、跳ねるような女の子らしい声。
頼もしさがあり、かっこよくて信頼できる説得力のある声。
とにかく聴いているだけで癒される、柔らかくて、ほっとする声。
人の声には、それぞれの魅力がある。
隣のひとの声は、きっと、自分とは違う声。
いいなぁ、あんなに可愛い声が出せたら。
いいなぁ、あんなに大人っぽくて素敵な声だったら。
その輝きや魅力が、羨ましくなる。
そう、とかく隣の声は、青いのだ。
違いが分かるひと…一流に触れよ
もちろん、私はそうは思わないな、というひともいると思う。
それは、自分の声の魅力を知っているからか、
はたまた、ただ単に声に対して無頓着で、
ひとの声の魅力に気付くこともなく、日々を過ごしているからかもしれない。
違いがわかる男、という文句は、かつてのゴールドブレンドのCMのことばだが、
違いがわかるかどうか、というのは、
どれだけ触れているか、意識を向けているか、によって変わる。
たとえば、いい音楽に触れ続けていると、音楽の耳が肥えてくる。
いい品物に触れ続けていると、質の良さへの目が肥えてくる。
一流の空間に通えば、自分の感覚が研ぎ澄まされていく。
一流に触れよ、というのはそういうことだ。
つまり、声を聴き続けていれば、声の耳が肥えてくる。
声の微細な魅力を、今時点では意識化、概念化、言語化はできないかもしれない。
だけど、意識して触れていくと、
次第にその違いがわかるようになっていく。
ただし、一流の声、というのはいささか範囲がぼやけてしまう。
なぜならば、鍛え抜かれた声、一流の声、と、
人間的魅力が溢れる声は、必ずしも、いやけっこうな確率で、一致しないからだ。
もっともっと、
人間が人間たるゆえん、
そのひとが、そのひとたるゆえんが、声にはある。
その違いに耳を傾けてほしい。
違いがわかるということは、
その魅力を感じる感性が育つということ。
機微を味わい、深さを知り、より愉しめるようになっていく。
隣の芝生の楽しみ方2つ
隣の芝生を愉しむには、方法がある。
1つめは、、、
自分の芝生の色を知る
そう、自分の芝生の色を知ることだ。
自分の声はどんな声なのか?
自分にはどんな魅力があるのか?
自分にはどんな性癖、性質、楽しみ方が合うのか?
それさえ知っていれば、
いくら隣の芝生が青かろうと、自分の芝生の色を堪能することができる。
あなたの色は何色か?
あなたはどのくらい、自分の声や、自分の世界を知っているだろうか。
そして2つめは・・・
他人の色を愉しむこと
そう、他人の芝生の色を愉しむこと、だ。
わたしたちに与えられた声は、資質は、才能は、
実は自分のためだけのものではない。
この世に分かち合うように、
それぞれの役割とともに与えられた、贈り物である。
つまり、ざっくりと意訳すると、
ひとの声、ひとの才能は、自分が愉しむためのものでもある、ということだ。
わたしたちは、才能の恩恵に与かるようにできている。
と、同時に、自分の才能も、ともに分かち合うようにできているのだ。
だとしたら、
とことん味わい尽くすのが、
この世にヒトとして生まれた醍醐味ではなかろうか、とわたしは思う。
唯一無二のあなたの声
あんな声だったらな・・・
わたしもあんなふうに歌えたらな・・・
甘やかに想いを馳せるのはしあわせのうちだけれど、
それを、悔しく、もどかしく、あるいは憂いて思うのなら、
それはとてももったいないことである。
わたしたちは、唯一無二のこの声に生まれている。
それには必ず、理由があるのだ。
この声だからこそ、与えられた才能と素質があるということ。
自分の色と、他人の色を愉しんでいけるといい。
自分の声と、他人の声を、愉しんでいけるといい。
そうそう。ひとつ追記。
たとえば、
あなたの声が、とてもクリアで軽く明るい声で、
パンチの効いた、ソウルフルな声が羨ましいとしましょう。
もしもそのソウルフルな声が手に入ったとしたら。
どうなるでしょう。
声が変わる、それはつまり、
同時にソウルフルな声に合った、
性質や、お役目や、好みになるということ。
似合う服も、
ココロオドルことも、
得意なことも、苦手なことも、できないことも、
ぜんぶぜんぶ、変わってくる。
自分が本当に好きなものが、好きじゃなくなる感覚。
それはきっと、違和感でしかないんだろうなと思う。
だから。
めいっぱい自分を愉しもう!!
ともに、ココロオドル人生を!!